みかづき通信

本の紹介、『架空の夫と』の読書日記、日々の生活の記録を残しています。

憧れと強み

 自分はずいぶんな見栄っ張りだと思う。

 何事も100%に出来きないと我慢ならない。

「なんでも上手くこなせる自分」に憧れているからだろう。だが、実際の私はダメダメな人間なのである。

 ダイエットをしたいのに運動は嫌いだし、身だしなみを整えて小綺麗にしたいのにめんどくささが勝つし、人一倍寂しがりやの気分屋でわがまま。

 ああ、こんな自分を変えたい。変わりたい。

 でも、ないから変えていけばいいのだろう?

 いつもそこでわからなくなってしまう。

 理想はあるのだ。

「なんでも上手くこなせる自分」が、それである。

 けれど、本当に、心の底から私は「なんでも上手くこなせる自分」になりたいのか?

 よくよく考えれば「得意なことを60%〜80%ぐらいで、そこそこ上手くこなせる自分」がちょうど良い気がする。

 私はスーパー完璧人間になりたいわけじゃない。

 未熟なところや欠落を抱えつつ、それでも生きていける「強み」が欲しい。

 自分の強みは「書く」ことではないだろうか。

「書くこと」だけは挫折を繰り返しながらも細々と続けられている。

 この「強み」を磨いていけばいい。

 まずは60%〜80%の文章を気負わずに書けるようになることを目指そう。

 

 このブログも、実は何度も更新したかったのだが、変に気負ってしまい下書きを書いては消し、書いては消し、を繰り返していた。

 

 それでは、いつまで経ってもブログは書けない。

 私は、私が今感じていることを正直にここに記すればいいのだ。

 

フィットネスバイク買いました!

 首を痛めてから、まっすぐ前が見えない(首が斜めってしまう)ため散歩をするのも苦労する。

 慣れた道なら記憶を頼りに歩けるのだが、急に自転車が死角から飛び出してきたり、道に段差ができていたりすると気づけずにひやり、とすることが多い。

「歩くの怖いな……」と家に引きこもっていたら、運動不足が深刻化してしまった。

 体重は増えるし、体は常にだるい。思考もなんとなくネガティブに。

 いいことが一つもない。

 フィットネスゲームも所持しているのだが、あれも首が斜めっていると画面がちゃんと見れずに動作の指示が確認しづらい。

 

 そこで、「もうこれがだめだったら、おとなしくラジオ体操する!」という気持ちで、前々から欲しかったフィットネスバイクをメルカリで購入した。

 

 商品が届いてから三日目。

 動画を見たり、ラジオを聞いたり、本を読んだりしながら1日、合計1時間程度こいでいる。

 最初なのでゆっくりゆっくりこいでいるため、ダイエット効果を期待できるかはまだわからないが、気分がいい。

 なにもせず、体を動かさないよりはよっぽどマシだろう、というのが今のところの考えだ。

 これから冬になると外に出るのが億劫なくらい寒くなるので、フィットネスバイクで運動習慣をみにつけるぞ!

『N/A』年森瑛

 文學界新人賞を受賞した『N/A』(年森瑛・著)を読了する。

 

 この小説は「個人を塗りつぶしてカテゴライズされる」ことを嫌う女の子、まどかの物語。

 

 お試しでお付き合いしている、年上のうみちゃんがツイッターで、まどかのことを写真(顔は写っていないが、見る人が見れば特定されてしまう)つきで「同性愛者のパートナー」として紹介していることに、まどか同様、ゾッとした。

 

 うみちゃん、ネットリテラシーなさすぎだろう、と呆れた。けれど、そんなうみちゃんへの感想もまどかの視点で見ているからで、うみちゃん側の視点でこの物語が語られていたらまったく違う話になっていただろう。

 

 小説とは、主人公の価値観で人間がカテゴライズされていく物語なのかもしれない。

 

 私たちは無意識に、カテゴライズせねば安心できない生き物なのかもしれない。

 

 わからないものをわかった気になることは、恐ろしい。かなり気をつけて自分の思考や価値観を俯瞰しなければ、かんたんに私はこの罠に落ちる。

 

 

 

 


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【6月27日(月)】

 暑さのせいか、最近眠りが浅い。

 架空の夫を起こさないよう、布団から抜け出し、ジャスミン茶を飲みながら日記を書く。

 前日の夜、選考に残っていた小説のコンテスト結果について書きながら「またダメだった……」と、改めて頭を抱える。

 今回は自信あったんだけどな、ちくしょうー!

 悶々とするので、もう一度、布団に入ってまぶたを閉じるがうつらうつらとしかできなかった。

 

 五時になり、また布団を抜け出し、読書。

『書評の仕事』(印南敦史・著)の目次を眺めながら、気になる箇所をパラパラと読む。

 

【6月28日(火)】

 

 疲れていたのか、八時間以上寝ていた。びっくり。

 昨日から自分の時間の使い方を把握するために、ざっくりとだがログをノートにとっいる。

 やらなきゃいけないことがあるのに、だらだらと過ごしていることがわかり、これまたびっくり。

 

 ただ、うつ病がひどくなっている感覚があるので、今はゆっくりしているのが正解なのかもしれない。

 

Amazonで、小説新潮6月号をぽちる。

 

【7月3日(日)】

『ぱさぱさに乾いてゆく心を

 ひとのせいにするな

 みずから水やりを怠っておいて』

 夜中に茨木のり子の「自分の感受性くらい」を読む。

 良い詩だ。こちらの図星をつかれ、ドキッとする。

作品は生きているのか、死んでいるのか

 小説コンテスで二ヶ月連続最終選考に残るが、今月も入選できなかった。

 入選した方々には「おめでとうございます」という拍手を送る。

 けれど、落選した自分の作品を読み返しながら「私の書いた作品は死んでしまったのだろうか」とやや暗い気持ちになる。根暗なのです。ごめんなさい。

 

 私の作品は、何かが欠けているから落選したのだろうか。

 入選作品と私の書いた作品には、多分大きな差がある……のだと思う。

 でも自分じゃ、その差がわからないから、苦しい。

 言葉選びが未熟なのか? 切り取ったシーンがお粗末なのか? 完成度が足りていないのか?

 

 なにもはっきりとしたことはわらかないことだけが、わかっている。

 ただ、ただね。私の書いた作品には生きていて欲しい。

 なんの賞もとれなかったけれど、無駄死にはさせたくない。

 

 今回の作品も、これからの作品も、私の中で生き続けろ。糧となれ。

 

 

朝を食べる

ティファニー」という天上人が身にまとうブランドがあるのは知っている。

 素敵なブルーがブランドカラーなのも、なんとか知っている。

 しかし、私が「ティファニー」について知っているのはそこまでだ。

 そもそも、何をメインに売っているブランドなのかも知らなかったりする。

(この記事を書くにあたり、調べてみたらジュエリーや食器などを作っているブランド……らしい)

 

 高級ブランドと日頃縁のない人間は、「ティファニー」についてたいして知らなくても、案外生きていけるものである(だが、やはり恥ずかしさは感じてしまう)。

 

 私にとって「ティファニー」と言ったらオードリー・ヘップバーンが出演している映画「ティファニーで朝食を」の方が身近に感じる。

 その映画も成人してから一回観ただけなので記憶があやふやではあるが、オードリー・ヘップバーンは一度もティファニーで朝食を食べていなかった気がする。

 タイトルと女優さんのイメージから、さぞかしお洒落な朝食映画なのだろうと思っていたがそんなことはなかった……はず。

 

 映画を観てからさらに時は流れ、2022年の6月。

 今更ながら日本の漫画「いつかティファニーで朝食を」をピッコマ(漫画配信アプリ)で読み始めた。

 ドラマ化もされ、当時さんざんテレビで取り上げられていたのにいまいち「食漫画」にピンッときていなかったので今の今まで素通りしてしまっていた。痛恨すぎる!

 

 

 なぜ、今になって「いつかティファニーで朝食を」を読む気になったのかというと、最近の私は「食べること」を楽しめていなかったからである。

 

 毎日、毎日、流し込むように特に食べたいでもない食べ物を食すのはなんとも味気なかった。

 昔は、食べることにわくわくしていたのに、だ。

 

 このままではテキトーな食べ物をテキトーに食べて終わってしまう。

 そんなのは嫌だった。

 まずは、自分の胃袋とよく相談し「食べたい朝食」を作ることから始めてみることにした。

 

 ネットで「朝食 簡単レシピ」と適当に検索していると「焼きおにぎり」が気になった。

 それは、味噌・砂糖・みりん・ごま油を混ぜて作ったタレをおにぎりに塗って、オーブントースターで焼くという、さほど手間のかからないレシピだった。

 

 私はさっそく早朝から米を炊き、炊きあがった白米でおにぎり(レシピにはなかったが、中にチーズを入れてみた)を握る。

 タレを両面に塗って、オーブントースターへ突っ込む。

 焼き目がつくまでの間、大好きな玉子焼きを焼いた。

 我が家で玉子焼きといえば、なめ茸瓶のなめ茸が入ったものである。

 かんたんに味がしっかり決まるし、美味しいのだ。

 それからもう一品、肉が欲しくて、冷凍庫からミニソースかつを取り出し、電子レンジでチン。

 すべてが手作りである必要性を私は感じないので、これでよい。

 

 あとは、食事のお供にスーパーで売っているお手頃価格なほうじ茶を淹れた。


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 あいにく天気はくもり気味だったが、庭のテーブルに朝食を運ぶ。

 

「いただきます」と手をあわせて、玉子焼きを一切れ。

「あ、これ好きな味だ」と思いながら、口の中を空っぽにし、温かなほうじ茶を一口。

 安い茶葉だし、すごく丁寧に淹れたわけじゃないのに……おいしい。

 

 久しぶりに、満足感を覚える朝食だった。

 私の周りには、ゆったりとした時間が流れており、

「ああ、朝を食べるから「朝食」なのか」

と、妙に納得した。

 

方程式が当てはまらない

 とある小説の主人公が「高校生活」=「薔薇色」という一般的な方程式をあげていた。

 ならば、私は「歌を歌う」=「機嫌がよい証拠」という一般的な方程式をあげよう。

 歌を歌う、という行為はなぜか機嫌のよさと直結されやすい。鼻歌なんかもそうだ。

 でも、私にとって「歌を歌う」行為は八割「心の悲鳴」だ。

 私は不調や強い不安を感じる時に歌を歌う。

 強い不調や不安を感じ、「心の悲鳴」を歌っているのに、家族に「お、機嫌がいいね」と毎回言われるのが苦痛だ。

 私は無意識に陽気な歌を口づさんで、負の方に傾いた体や心を、なんとか必死に立て直そうとしている最中なのに「機嫌がよい」なんて言われたら、泣きたくなる。

 

 馬鹿みたいに思われるだろうが、この数ヶ月間、「歌を歌う」=「機嫌がよい証拠」という方程式を本気で憎んだ。

 家族には「私が歌を歌っている時は不調の証」とようやく最近、伝えられるようになったが、それでも一般的な方程式が刷り込まれた家族は「お、機嫌いいね」とまだ言ってくる。

 

「一般的」や「普通」から外れたタイプの人間は、家族にですら理解されにくい。

 まあ、家族とは「距離の近しい他人」なので当たり前といえば当たり前なのだけれど。

 

「一般的」や「普通」の人間に擬態するのは、なかなかに難しいものだと再確認した。