とある小説の主人公が「高校生活」=「薔薇色」という一般的な方程式をあげていた。
ならば、私は「歌を歌う」=「機嫌がよい証拠」という一般的な方程式をあげよう。
歌を歌う、という行為はなぜか機嫌のよさと直結されやすい。鼻歌なんかもそうだ。
でも、私にとって「歌を歌う」行為は八割「心の悲鳴」だ。
私は不調や強い不安を感じる時に歌を歌う。
強い不調や不安を感じ、「心の悲鳴」を歌っているのに、家族に「お、機嫌がいいね」と毎回言われるのが苦痛だ。
私は無意識に陽気な歌を口づさんで、負の方に傾いた体や心を、なんとか必死に立て直そうとしている最中なのに「機嫌がよい」なんて言われたら、泣きたくなる。
馬鹿みたいに思われるだろうが、この数ヶ月間、「歌を歌う」=「機嫌がよい証拠」という方程式を本気で憎んだ。
家族には「私が歌を歌っている時は不調の証」とようやく最近、伝えられるようになったが、それでも一般的な方程式が刷り込まれた家族は「お、機嫌いいね」とまだ言ってくる。
「一般的」や「普通」から外れたタイプの人間は、家族にですら理解されにくい。
まあ、家族とは「距離の近しい他人」なので当たり前といえば当たり前なのだけれど。
「一般的」や「普通」の人間に擬態するのは、なかなかに難しいものだと再確認した。